
江戸前寿司と醤油
公開または更新日:0001-01-01
サイト:日本食文化の醤油を知る
寿司は紀元前4世紀頃の東南アジアで誕生したといわれており、日本へ伝わったのは平安時代と考えられている。 「すし」の語源は江戸時代中期、元禄12年(1699年)に編まれた『日本釈名(にほんせきめい)』や享保2年(1717年)『東雅』の語源辞書で、その味が酸っぱいから「酸し(すし)」であるとした説が有力とされている。
寿司は紀元前4世紀頃の東南アジアで誕生したといわれており、日本へ伝わったのは平安時代と考えられている。 「すし」の語源は江戸時代中期、元禄12年(1699年)に編まれた『日本釈名(にほんせきめい)』や享保2年(1717年)『東雅』の語源辞書で、その味が酸っぱいから「酸し(すし)」であるとした説が有力とされている。
「将軍のお膝元」とよばれる政治の中心都市として繁栄した江戸(1700年頃)の人口は、武士約50万人、町人約50万人という100万人を超える一大消費都市であった。「江戸は諸国の人の掃き溜め」といわれるほど全国各地からさまざまな人々が集ってきた。そうした人々は当然それぞれその出身地の食文化を背負ってきた。
江戸時代半ば以降に普及した寿司やウナギ、天ぷらなども後に次第に高級化するが、初めは江戸庶民の手軽なファストフードの屋台として登場した。いずれの料理も当初は、上方(関西)で生まれたものが、江戸において洗練され「江戸前料理」として発展した。
煮売りというのは、飯と魚、野菜、豆などを煮たおかずを売る店で、酒も飲ませたから、居酒屋とほとんど区別できない。煮売りにも、担い屋台、辻売り屋台、店の三種があった。前者のふたつを振売りの煮売り、後者を茶屋煮売りという。惣菜用の料理を扱う「煮売り屋」が茶屋(煮売茶屋)を兼ねて料理を提供することもあった。
江戸の醤油は江戸時代の初期、上方(関西)に供給を仰いでいた。江戸に上方から廻船で運ばれてくる良質な醤油を「下り醤油」といった。江戸に運ばれた「下り醤油」は、その後、元禄から享保年間(1700年代前半)に入ると、江戸周辺で造られて発達した安価な「関東地廻り醤油」に次第に代わっていった。
日本の外食文化は、江戸時代前期に起こった浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まり、後期には八百善のような高級料亭も誕生するようになった。江戸の外食産業の始まりは、天秤棒で商品をぶら下げて売り歩く「振売り(ふりうり)」と、加熱調理をした飲食を提供する「焼売・煮売屋(にうりや)」であった。